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上杉謙信、雪中の進軍
弘治3年(1557年)、武田信玄は和議を無視して北信濃へ攻め込みました。そして葛山城を攻め落とします。
対する上杉謙信は、信州口に兵を動かし雪の中を途中まで進軍し武田信玄に圧力をかけます。
4月に入ると上杉謙信は、善光寺に陣を敷き武田軍に落とされた諸城を奪還していきます。その後、川中島北方の上野原で上杉・武田両軍は再び戦闘を行ないます。これが第三回川中島の戦いといわれています。
この戦により、善光寺平や戸隠付近を手中に収めた武田信玄と飯山城、野尻城を前線基地とする上杉謙信との対峙という構図ができあがっていきます。北信濃の領主達は自分達の領地を失い謙信に頼らざるを得ない状況に陥っていきました。
結果として、上杉謙信は北信濃の領主達を完全に自軍に取り込んだことになります。そういう意味では、第三回川中島の戦いは双方にとって利があったといえるのではないでしょうか。
対する上杉謙信は、信州口に兵を動かし雪の中を途中まで進軍し武田信玄に圧力をかけます。
4月に入ると上杉謙信は、善光寺に陣を敷き武田軍に落とされた諸城を奪還していきます。その後、川中島北方の上野原で上杉・武田両軍は再び戦闘を行ないます。これが第三回川中島の戦いといわれています。
この戦により、善光寺平や戸隠付近を手中に収めた武田信玄と飯山城、野尻城を前線基地とする上杉謙信との対峙という構図ができあがっていきます。北信濃の領主達は自分達の領地を失い謙信に頼らざるを得ない状況に陥っていきました。
結果として、上杉謙信は北信濃の領主達を完全に自軍に取り込んだことになります。そういう意味では、第三回川中島の戦いは双方にとって利があったといえるのではないでしょうか。
上杉謙信敗れる?第二回川中島の戦い
上杉謙信は、天文24年(1555年)の7月に信濃へ再び出陣します。第二回川中島の戦いの開戦です。
上杉謙信は、善光寺に陣取り旭山城を囲みました。対する武田信玄は旭山城へ3000人の兵士と300挺の鉄砲を送り、謙信に備えたとされています。
結局、第二回川中島の戦いは決着が着かず上杉謙信も旭山城を落とすことができませんでした。
両軍は今川義元の調停で和議を結び、撤兵していきます。しかしながら信濃を領主のひとりだった村上義清の信濃帰還は叶わず、武田信玄は川中島の一部を実質的に領有することになります。
タイトルを「上杉謙信敗れる?」とした理由はここからきています。
今川義元の調停により和議が結ばれたとはいえ、武田側には戦功によって領地をあてがわれた武将もいて感状も10通存在しています。
上杉側の感状は無し。この結果を見ると、第二回川中島の戦いは武田信玄の勝利だったといわざるを得ません。
上杉謙信は、善光寺に陣取り旭山城を囲みました。対する武田信玄は旭山城へ3000人の兵士と300挺の鉄砲を送り、謙信に備えたとされています。
結局、第二回川中島の戦いは決着が着かず上杉謙信も旭山城を落とすことができませんでした。
両軍は今川義元の調停で和議を結び、撤兵していきます。しかしながら信濃を領主のひとりだった村上義清の信濃帰還は叶わず、武田信玄は川中島の一部を実質的に領有することになります。
タイトルを「上杉謙信敗れる?」とした理由はここからきています。
今川義元の調停により和議が結ばれたとはいえ、武田側には戦功によって領地をあてがわれた武将もいて感状も10通存在しています。
上杉側の感状は無し。この結果を見ると、第二回川中島の戦いは武田信玄の勝利だったといわざるを得ません。
上杉謙信と川中島の戦い
上杉謙信と武田信玄による「川中島の戦い」は、戦国時代きっての名勝負だったといわれています。
上杉謙信、武田信玄そのいずれの軍団も後世で戦国時代最強の軍団と称され、軍記や小説、映画、ドラマなど様々な形で表現されてきました。
二人が5度に渡って戦いを繰り広げた「川中島」は、上杉家と武田家にとってどのような意味を持つ場所だったのでしょうか。
武田信玄は上杉謙信とは異なり、守護大名の家に生まれた言わばエリートでした。武田信玄は、内憂を払う目的で、甲斐の隣国である信濃に目を向けさせようとしました。当時の信濃は多くの領主がひしめきあい国としての統一がとられていない地域であったため、勢力を拡大する先としては、格好の標的でした。
上杉謙信にとって信濃(特に北信濃)は、越後との国境にあたるため武田信玄の侵略を許してしまえば領国である越後を危険に晒すことになってしまいます。
もし、北信濃を武田信玄に落とされるようなことになれば、上杉謙信の居城である春日山城が直接危険に晒されることになるわけです。
上杉謙信としては、指をくわえて見ているわけにはいかないため北信濃への出兵を決意します。
それぞれの思惑を抱えて、出兵した上杉謙信と武田信玄が合間見えたのが善光寺を中心とする川中島で、ここに第一回川中島の戦いの火蓋が切って落とされるわけです。
とは言え、第一回の川中島の戦いはそれほど大きな戦にはならず八幡・荒砥(千曲市)で上杉軍が武田軍を破り、越後へ帰還します。
上杉謙信、武田信玄そのいずれの軍団も後世で戦国時代最強の軍団と称され、軍記や小説、映画、ドラマなど様々な形で表現されてきました。
二人が5度に渡って戦いを繰り広げた「川中島」は、上杉家と武田家にとってどのような意味を持つ場所だったのでしょうか。
武田信玄は上杉謙信とは異なり、守護大名の家に生まれた言わばエリートでした。武田信玄は、内憂を払う目的で、甲斐の隣国である信濃に目を向けさせようとしました。当時の信濃は多くの領主がひしめきあい国としての統一がとられていない地域であったため、勢力を拡大する先としては、格好の標的でした。
上杉謙信にとって信濃(特に北信濃)は、越後との国境にあたるため武田信玄の侵略を許してしまえば領国である越後を危険に晒すことになってしまいます。
もし、北信濃を武田信玄に落とされるようなことになれば、上杉謙信の居城である春日山城が直接危険に晒されることになるわけです。
上杉謙信としては、指をくわえて見ているわけにはいかないため北信濃への出兵を決意します。
それぞれの思惑を抱えて、出兵した上杉謙信と武田信玄が合間見えたのが善光寺を中心とする川中島で、ここに第一回川中島の戦いの火蓋が切って落とされるわけです。
とは言え、第一回の川中島の戦いはそれほど大きな戦にはならず八幡・荒砥(千曲市)で上杉軍が武田軍を破り、越後へ帰還します。
